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季刊魔女雑誌:Majo Majo

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祭壇について~谷崎榴美~

2014年09月24日 01:26 by wich_majomajo13

私にとって祭壇は、心そのもの。だから心が荒むと祭壇も荒れる。

私のベッドルームの祭壇は、つい最近まで荒涼としていた。カップには再結晶化したキューブ型の塩がこびりついて、蝋は舞い散ったセージの灰を巻き込んだまま固まってる。まごうことなきお手入れ不足の祭壇は、そのときの私の心中そのものだった。

ここで私が言っている祭壇というのは、デイリー祭壇つまりお部屋のどこかに常設してある祭壇のことで、そういう祭壇はあたりまえのことだけど手入れを怠るとどんどんと汚れて雑然としてゆく。「だから絶対にいついかなるときも祓い清め整然としていなければならないの!」というわけでもないというのが私の考え。よく魔女術と神道は似ているって言われるけれど、決定的に違う部分は『ケガレ』の感覚なんじゃないかなと思う。「性器もおならもおしっこも、ぜんぶ女神の現れなんだよ〜♪」と。スターホークも歌ってる。道教伝来以前の日本には、ケガレの思想は存在しなかったという説もあるけど。

さておき閑話休題。デイリー祭壇は心の現れ。ならばサバトの祭壇は、現れの祭壇だといえる。
もうすぐソーウィンがやってくる。私がロンドンで参加した儀式では、祭壇の上に木組みの車輪を天上からつり下げて、亡くなった近しい人や家族、先祖の名前と祈りのシジルを刻んだ木片を吊るしていた。ハロウィンは日本でいうところのお盆にあたり、死者達の霊が街中に溢れ出す。私は体験した事がないけれど、今でも日本の地方の方では送り火、迎え火、灯籠などの明かりをつかった祖霊とのコンタクト法が残っているそうだ。
多数の人と共有する儀式では共通の体験がお題にのぼるこれは必然。そこで取り扱う死は、共通のリアリティの中で展開した出来事となり、つまりそこでの『死』は実際の知人や家族の死となる。けれど一人で魔女をやっている人にとっての儀式は、自分だけのリアリティの縮図もしくは展開図となる。私だけのリアリティの中で立ち現れる死は、別に『他者の死』である必要はない。つまりたとえば、自身の死、とか。私の友人の男性魔女は、ある年のソーウィンの儀式で、自身が死にゆく太陽の王となり、祭壇の前で「儀式的な死」を演じたそうな。詳しい内容にはここでは触れないけれど。

さて延命長寿が良き事であり、死は悪しきこと、汚らわしいことであるという考えがなぜが主流になっているけれど、死はべつに悪いことじゃないんじゃないかな。むしろ、誰も死なない世界は、あたらしい命の誕生を阻み、刷新の機会を奪ってしまうんじゃないかと私は思ってる。死は新しい命の芽吹きの糧となり、誕生は死の前兆。すべてが消滅する死、というのは本当に存在しているのだろうか?もしそれが存在しているとすれば、それは「忘れる」ということなんじゃないかな。逆におぼえているかぎり、だれかにおぼえてもらえているかぎり、その命は生き続けてる、と言えるんじゃないかな。そう考えると、上手に忘れることができれば、死に損なった古い自分を死なせてあげる事が出来るということ。

死ぬべきもの、生きるべきもの。
それらを自分の中にみつけることができれば、ソーウィンの祭壇はおのずと整う。
祭壇は、儀式という形で抽出されるあなたの世界の作業台。
神と女神の恋物語がフラクタル構造のもと再現されているのがこの宇宙、そしてそこに居る私たちなんだとすれば、きわめてプライベートな祭壇も、不思議と神と女神を讃えるものになるはずだと私は思う。
あなたのなかの死すべき部分をみつけて、その部分を心安らかに送るには何が必要かを考えてみて。たとえば古い靴下や、別れた彼の忘れ物。サイズの合わなくなった服や、割れてしまった天然石。もしも送られる古い自分に、どこか遠くへ旅立つイメージを重ねたいのならば、『乗り物』を用意してあげればいい。それはたとえば小さな小舟や藁で編んだ子馬、なんならなすやきゅうりに割り箸を刺して乗り物をつくってあげたらいいと思う。ああ、そういえば、シンデレラはカボチャの馬車に乗ってたんだった!

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